| 選んだ人の名前 | 年齢 (2026年時点) | 書評タイトル | 選書 | 選書作者 | 出版年 | 出版国 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 鴻巣友季子 | 62歳 | スカーレットは新たな家族像をつくりだしていた | 『風と共に去りぬ』 | M・ミッチェル | 1936年 | アメリカ |
| 小川公代 | 53–54歳 | 『高慢と偏見』とオースティン一族 | 『高慢と偏見』 | J・オースティン | 1813年 | イギリス |
| 加賀山卓朗 | 63歳 | 世界と家族を知る「大きな物語」 | 『大いなる遺産』 | C・ディケンズ | 1861年 | イギリス |
| 鹿島茂 | 76歳 | 引き裂かれる一族とフランスの統合 | 『レ・ミゼラブル』 | V・ユーゴー | 1862年 | フランス |
| 望月哲男 | 75歳 | 群れ・個人・家族 | 『戦争と平和』 | L・トルストイ | 1869年 | ロシア |
| 松下隆志 | 41–42歳 | なまぬるい虚無からの出発 | 『悪霊』 | F・ドストエフスキー | 1871-72年 | ロシア |
| 鹿島茂 | 76歳 | 貴族社会の恋と想像力 | 『失われた時を求めて』 | M・プルースト | 1913-27年 | フランス |
| 中村隆之 | 50–51歳 | 崩壊していく世界を語る小説 | 『響きと怒り』 | W・フォークナー | 1929年 | アメリカ |
| 白岩英樹 | 49–50歳 ※ | あなたがいまここにいないから、わたしはどこにでもいく | 『怒りの葡萄』 | J・スタインベック | 1939年 | アメリカ |
| 山崎佳代子 | 69歳 | 白い橋の美学 | 『ドリナの橋』 | I・アンドリッチ | 1945年 | ユーゴスラビア |
| 池澤春菜 | 不明 | 多様性と孤独を抱える理想郷 | ムーミン・シリーズ | T・ヤンソン | 1945-70年 | フィンランド |
| G・ケズナジャット | 41–42歳 | 日常の異端性 | 『細雪』 | 谷崎潤一郎 | 1943-48年 | 日本 |
| 堺三保 | 62–63歳 ※ | 〈銀河帝国興亡史〉の未来像 | ファウンデーション | I・アシモフ | 1942-50年 | アメリカ |
| 伊藤尽 | 60–61歳 ※ | 言語の歴史を継承した想像ファンタジーの世界文化遺産 | 『指輪物語』 | J・R・R・トールキン | 1954-55年 | イギリス |
| 依岡隆児 | 64–65歳 ※ | 戦争の想起と灰色のリアリズム | 『ブリキの太鼓』 | G・グラス | 1959年 | 西ドイツ |
| 古川日出男 | 59–60歳 ※ | 繁殖力の文学、だがしかし | 『百年の孤独』 | G・ガルシア=マルケス | 1967年 | コロンビア |
| 安藤礼二 | 58–59歳 ※ | 物語を生み出す「廃墟」 | 『豊饒の海』 | 三島由紀夫 | 1965-71年 | 日本 |
| 小沢自然 | 54–55歳 ※ | インドへの愛の祈り | 『真夜中の子供たち』 | S・ラシュディ | 1981年 | イギリス |
| 松田樹 | 32–33歳 ※ | 記憶喪失にあらがって | 『千年の愉楽』 | 中上健次 | 1982年 | 日本 |
| 伊勢康平 | 30–31歳 ※ | 夢と空白の起業家小説 | 『兄弟』 | 余華 | 2005年 | 中国 |
『プンカク』による選書バージョン
前文――『プンカク』編集部
一族の想像力
いまは政治の時代だ。誰もが政治を語り、文学もまたその熱狂に呑み込まれている。作家は声明を出し、小説は時代の鏡であることを求められる。それ自体を責める気はない。しかし、ふと立ち止まって問いたくなる。文学の言葉には本来、そういった熱狂を内側から断ち切る力があったのではないか、と。
本特集「一族の想像力」は、その問いから生まれた。
テーマに「一族」を選んだのは、恣意的な選択ではない。家族、血族、あるいはそれに準じた私的なつながり——それは、歴史や政治が「公」の語り口で語ろうとするものを、別の角度から照らし出す装置である。革命も、植民地支配も、近代化も、戦争も、一族の食卓に持ち込まれたとき、はじめてその輪郭が生身のものとなる。英雄も悪漢も消え、残るのは遺産をめぐる諍い、老いた親の沈黙、帰らない息子の椅子だ。
私たちが選んだ二〇作は、一九世紀初頭のイギリスに始まり、二一世紀の韓国で終わる。オースティンが描いた「格」と結婚をめぐる五姉妹の物語から、キム・チョヨプが光速の宇宙で問い直す記憶と喪失まで、二百年の時間が一本の線でつながる。ゾラは一族の遺伝と堕落に第二帝政のフランスを重ね、マフフーズはカイロの路地裏の三代を通じてアラブ近代の光と影を写し取った。フォークナーはアメリカ南部の腐臭を、アチェベはアフリカに押し入った植民地主義の暴力を、それぞれ一族の崩壊として語った。魯迅は「家」という制度そのものに刃を向け、大江は四国の森の父と息子のあいだに戦後日本の傷を宿した。
SF・ファンタジーも積極的に採り入れた。ル=グウィンの「ゲド戦記」が連作の形式で問い続けるのは、力の継承と喪失という、きわめて「一族的」な主題である。ケン・リュウとキム・チョヨプは、SFという形式でなければ到達できない場所で、移民の記憶や宇宙の孤独を「家族」の言語で語る。幻想の衣をまとっているからこそ、かえって現実の核心に触れる——それもまた、文学が持つ逆説の力だ。
選出は編集部が行った。公平性と多様性に配慮したつもりだが、見落としは必ずある。決定版ではない。それでも、英米欧の正典に偏らず、中東、アフリカ、ラテンアメリカ、東アジア、南アジアの声を並べることができた。文学の地図は、私たちが思うよりずっと広い。
いまは「コスパ」「タイパ」の時代だ。働きながら本を読む時間がないと言われ、長編、とりわけ翻訳長編は敬遠される。その気持ちはわかる。しかし、分厚いページをめくり、遠い時代の遠い国の虚構の世界に入り込むとき、私たちは「この現実」の熱狂から少しだけ距離を取ることができる。その距離こそが、逆に現実の本当のすがたを教えてくれる。
文学は現実逃避の手段ではない。それはむしろ、現実を組み替える手段だ。一族の物語を読むとは、自分がどんな時代の、どんな連鎖のなかに生きているかを問い直すことにほかならない。
ポピュリストとデマゴーグが跋扈する現代でこそ、もっと過去の長編小説が読まれてよい——その確信を胸に、私たちはこの二〇冊を選んだ。
| 著者 | 作品 | 年 | 国・地域 | ジャンル |
|---|---|---|---|---|
| ジェイン・オースティン | 『高慢と偏見』 | 1813 | イギリス | 長編 |
| エミリー・ブロンテ | 『嵐が丘』 | 1847 | イギリス | 長編 |
| トルストイ | 『アンナ・カレーニナ』 | 1878 | ロシア | 長編 |
| エミール・ゾラ | 『ルーゴン=マッカール叢書』より『居酒屋』『ナナ』『大地』 | 1877–1887 | フランス | 連作長編 |
| トーマス・マン | 『ブッデンブローク家の人びと』 | 1901 | ドイツ | 長編 |
| ナギーブ・マフフーズ | 『カイロ三部作』 | 1956–1957 | エジプト | 連作長編 |
| ウィリアム・フォークナー | 『響きと怒り』 | 1929 | アメリカ | 長編 |
| チヌア・アチェベ | 『崩れゆく絆』 | 1958 | ナイジェリア | 長編 |
| ガルシア=マルケス | 『百年の孤独』 | 1967 | コロンビア | 長編 |
| アイザック・B・シンガー | 『モシュカット一家』 | 1950 | ユダヤ(イディッシュ) | 長編 |
| トニ・モリスン | 『ビラヴド』 | 1987 | アメリカ | 長編 |
| 魯迅 | 『吶喊』『彷徨』 | 1923–1926 | 中国 | 連作短編 |
| 大江健三郎 | 『懐かしい年への手紙』 | 1987 | 日本 | 長編 |
| サルマン・ラシュディ | 『真夜中の子供たち』 | 1981 | インド/英 | 長編 |
| オルハン・パムク | 『チェヴデット氏と息子たち』 | 1982 | トルコ | 長編 |
| ジョナサン・フランゼン | 『コレクションズ』 | 2001 | アメリカ | 長編 |
| ル=グウィン | 『ゲド戦記』(全6巻) | 1968–2001 | アメリカ | SF・ファンタジー連作 |
| 余華 | 『兄弟』 | 2005–2006 | 中国 | 長編 |
| ケン・リュウ | 『紙の動物園』 | 2016 | 中国系アメリカ | 連作短編 |
| キム・チョヨプ | 『わたしたちが光の速さで進めないなら』 | 2019 | 韓国 | SF連作短編 |


