『テスカトリポカ』佐藤究 ★☆☆☆☆|調査は一流、小説は凡庸

読書

直木賞・山田風太郎賞をダブル受賞。帯には絶賛の言葉が並ぶ。メキシコのカルテル、アステカ神話、臓器売買、そして川崎——異質な要素が交差するという触れ込みに、読む前から期待値は高かった。結論から言う。期待は裏切られた。

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着想は悪くない、だがそれだけだ

メキシコ人の父と日本人の母を持つ少年コシモを軸に、アステカの神テスカトリポカの呪いが現代の麻薬資本主義・臓器売買として蘇るというのが本作の骨格だ。「血の資本主義」とでも呼ぶべきテーマ——人体そのものを商品として流通させるグローバルな暴力経済——をアステカ神話の暗黒性と接続するという着想は、確かに野心的である。現代日本文学においてこれほどスケールの大きいテーマを正面から扱おうとした作品は少ない。

しかし着想と達成は、別の話だ。


「よく調べた」、それ以上でも以下でもない

本作でまず目につくのは、調査量の多さである。メキシコのカルテル抗争の実態、麻薬密売ルート、臓器売買のネットワーク、そしてアステカ神話の神々の体系——これらについての記述は相当に詳細で、著者が膨大な資料を読み込んだことは疑いない。

だがこの「調査」が、物語の血肉になっていない。情報は正確かもしれないが、それが人物の感情や行動の必然性と有機的に結びついていないのだ。ページをめくると、まるでノンフィクションの記述がそのまま小説に移植されたかのような箇所が随所にある。読んでいて「調べたことを消化せずに並べている」という印象がぬぐえない。資料を咀嚼して物語に溶かし込む力——それこそが小説家の仕事のはずだが、本作ではその変換がうまくいっていない。


暴力描写の単調さ——「想像を絶する」を繰り返す貧しさ

本作は暴力描写が多い。カルテルの残虐行為、臓器摘出の場面、格闘シーン。これだけの暴力を書くなら、読者をしてページを閉じたくなるほどの、それでいて目を離せない圧倒的なリアリティが必要だ。

ところが実際の描写は、「想像を絶する」「ありえないほどの」「人間業とは思えない」といった修辞に頼りすぎている。こうした言葉は、暴力を描写しているようで実は何も描写していない。「想像を絶する」と書くことで、具体的な描写の責任を読者の想像力に丸投げしているだけだ。格闘シーンに至っては、マンガ的な誇張——一撃で相手が吹き飛ぶ、人間の限界をはるかに超えた身体能力——が頻出し、リアリズムとの間で宙吊りになったまま着地しない。暴力の重さが伝わってこない。記号としての暴力が並んでいるだけで、それが体に響いてこないのだ。

真の暴力文学とは何か。たとえばコーマック・マッカーシーの『血と暴力の国』や『ザ・ロード』における暴力描写を思い出してほしい。あの乾いた文体でこそ、暴力の不条理と重さが骨に刺さってくる。比べるのは酷かもしれないが、テスカトリポカという神の名を冠する以上、それくらいの水準を目指してほしかった。

「化け物め」と吐き捨てた末永は、みずからも酸素欠乏症に陥ったかのように床を這って逃げた。悪夢としか言いようがなかった。酸素濃度が十パーセントしかない状況下で、相手に銃を撃つという復合的な行為が実行できるのは医学的にあり得ない。

なぜ「医学的にあり得ない」ことが作中であり得ているのか、読み手を納得させる描写が欠落している。

見上げるバルミロは、雷に打たれたように立ちすくんだ。見えているのはおよそ人間ではなかった。月と星々をしたがえたテスカトリポカが、長い髪を振りみだして宙を舞っていた。

「見えているのはおよそ人間ではなかった。」というのは語り手が言うべきことではない。読み手がそう感じざるを得ない描写によってそう思わせるべきである。

それはバルミロでさえも知らなかった偶然だった。二人が川に落ちていったのは、アステカ王国の滅亡から正確に五百年をかぞえた夏の夜だった。

ここでも同様に「偶然」かどうかは語り手が述べることではない。語り手が客観性を失い、物語と癒着し、語ることを放棄している。ちなみに、これが作品の最後の一文。

大風呂敷を広げる手際は見事だが、回収があまりにお粗末(オーバースペック)。


川崎という舞台の必然性が薄い

本作の舞台の一つが川崎であることは、一定の意図が読める。川崎は在日外国人コミュニティが集積し、工業地帯の荒廃した風景と多文化的な雑踏が共存する、日本における「周縁」の象徴的な土地だ。メキシコのカルテルと日本の暗部を接続する場所として選んだのだろう。

しかしその必然性が、物語の中で十分に活かされているかというと、疑問だ。川崎でなければならない理由が、読み終えても腑に落ちない。メキシコという巨大な地理的・神話的空間と、川崎というローカルな場所との間にある跳躍を、著者は埋めきれていない。コシモの物語がその川崎で、あのような形で終わることも含めて、神話的スケールを掲げながら結末がひどく小さくまとまってしまっている印象を受ける。テスカトリポカという「夜の風」が吹き抜けるにしては、あまりに狭い場所で、あまりに静かに幕が下りる。


主題の図式性——神話と現代の接続が白々しい

本作の最大の問題は、テーマの図式性である。アステカの暴力的な神話世界=現代の麻薬・臓器資本主義、という対応関係は、作者の意図としてはわかる。血を求める神への生贄と、臓器を商品として売買するグローバル資本主義は、確かに構造的に似ている。そのアナロジーは決して馬鹿にできない洞察だ。

しかし小説においてテーマが「わかる」ことと、テーマが「迫ってくる」ことはまったく違う。本作では、この対応関係があまりに明示的・説明的に語られすぎていて、読者が自ら発見する余地がない。神話と現代の接続が、叙述によって証明されるのではなく、語りによって説明されてしまう。その結果、読後に残るのは「なるほどそういうことか」という理解であって、「えぐられた」という体験ではない。

文学が思想を伝えるとき、説明ではなく形象によって伝えるべきだ。本作はその原則において失敗している。

それでもアステカは、征服者のものにはならなかった。連中はアステカの怖ろしい神々を怒らせたよ。白人の文明に取りこまれたふりをして、アステカの神々は奴らのはらかたを食いちぎり、首を切り落として回っているんだよ。麻薬戦争は終わらないだろう?あれは呪いなのさ。最初にアヘンを持ってきたのは東洋人だったけれど、それもアステカの神々が呼び寄せたんだよ。いいかい?海を越えて、アステカの偉大な神々のもたらす災いが、どこまでも広がっていくんだよ


総評

すべてはテスカトリポカに支配されている

テスカトリポカは自分自身の血と心臓を、自分自身に捧げる。

『テスカトリポカ』は、志の高さと達成の低さが痛ましいほど乖離した作品だ。これだけの素材——アステカ神話、現代の暴力経済、混血という身体性——を持ちながら、それを昇華する文体と構成の力が伴っていない。調査は一流、しかし小説としての筆力は凡庸。暴力は派手だが軽く、主題は大きいが薄い。

日本の文学賞の選考が、しばしば「テーマの新奇さ」と「達成の質」を混同するという批判がある。本作の受賞は、その批判を改めて思い起こさせる。

読まなくてよかった、とは言わない。しかし絶賛に値するとも、思えないので★ひとつ。